2013年2月12日火曜日

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:4 彼女の音楽に会い、春が来た


発行日 =2012年8月9日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be木曜2面  ページ =4
発行社 =東京  文字数 =1139

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:4 彼女の音楽に会い、春が来た
 (60歳)

 ――松任谷由実さんとの出会いは、1973年の初アルバム「ひこうき雲」の制作ですね

 吉田拓郎とは違う意味で「見たこともない人種」というのが、第一印象でしたね。まずファッションが嫌。黒ずくめで厚底のサンダルはいて。あとは、拓郎もそうだけど、世に出る人間ってアクというか人間力というか、強さがありますよね。あまり近づきたくない、って感じ。僕の場合は、第一印象が悪い人の方が、理解できない部分が興味に変わって、だんだんタイトな関係になってうまくいくんですけどね。

 ――いつから好印象に?

 僕は詞は書けないけど、曲は書ける。それでも、かみさんの曲を聴いていくうちに「オレのやりたい音楽だ」と思えてからかな。拓郎の時は「ヘッ、日本のフォークか」という程度にしかみてなかった。でも、かみさんの音楽で、昔の自分をふっと思い出して。男子校の中学時代、友達から女子校の子にベースを教えてやってくれと頼まれて、すごくアニマルな気持ちで引き受けたことがあったんです。会ってみたら全然タイプじゃなくてアニマルな気分には水をかけられたけど、ボサノバを弾くその子の音楽には、大ショックを受けました。かみさんの曲でそのころの自分を思い出して、「オレこういう音楽求めてたんだ」と自分の中でつじつまがあった。

 ――では、音楽に恋した?

 女性としては最初興味なかったですね。むしろ音楽。あれはどうか、これはどうかと、いろいろなことをおもしろがって、凝って。プロデューサーの村井邦彦さんだけが「しょうがねえなあー」なんて顔してましたけど。「曇り空」という曲ではデュエットもしてるんですよ。ここからが「暗黒時代」からの脱却です。

 ――では救いは由実さん?

 そういう意味では彼女は救世主。スタジオミュージシャンをしていたから、経験も知識も僕よりあって、ビオラの中音部記号なんていうのも、教わりました。村井さんからも認められて、いろんなことをさせてもらえるようになって、そこから本当にやりたい音楽をやれるようになったんです。女性としてひかれていくのは、ああいう詞を作る人間が、下ネタでみんなをゲラゲラ笑わせる、そのオバカとクリエーティブのコントラストに興味がわいてからかな。いまだにそういうところが好きなんですけど。

 ――その後も、松田聖子さんやゆず、いきものがかりなど有名アーティストの作品を手がけられます

 由実さんの時と、ほかのアーティストの時とは、距離感の違いはあります。でも、僕が手がけた作品を、由実さんが悪くいうことはないですよ。音楽についてはいつも語り合ってますから。(聞き手・宮坂麻子)

 【写真説明】
30回記念の苗場コンサートを前に、妻の松任谷由実さんと=2009年、東京都、レスリー・キー氏撮影

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