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2013年8月1日木曜日

石川セリ

石川セリ

さくさくレビュー 石川セリ
http://wagamamakorin.client.jp/saku-seri.html

ユーミンとひこうき雲

ユーミンとひこうき雲

「翳りゆく部屋」・・・ユーミンはやっぱりすごかった、天才だ、と思える歌
http://bakahabakanarini.blog.fc2.com/blog-entry-34.html

YumingBiography
http://yumingfc.jp/biography/bio1960/

荒井呉服店
http://www.araigohukuten.co.jp/

荒井呉服店 荒井芳枝インタビュー
http://hachimall.net/kao/arai/01/

東京の田町、井の頭公園 東京 ユーミンお気に入りの場所
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yuming-kobe/info_tokyo/tamachi_inogashira.html

  聖地巡礼レポ
  http://www7a.biglobe.ne.jp/~yuming-kobe/info_tokyo/info_tokyo.html

ユーミンの聖地巡礼
http://sound.jp/yuming/

2013年2月12日火曜日

なつかし70s文化


なつかし70s文化

Boccheruna古事記
http://cliff-pinder.blog.so-net.ne.jp/

ひこうき雲
http://cliff-pinder.blog.so-net.ne.jp/2009-05-02


コメント原稿
私は若い世代なので、あまり金曜パック2部は知りません。(^_^;)

さすがに中学生だったので3時に部屋の電気を付けていられなかったから。
目覚まし時計を使って、3回か4回程度聞けたかなぁ。

最後も放送も、目覚まし時計で3時に起きてカセットに録音して、
4時にもう一度ひっくり返して寝たような。

その日は昼過ぎに目を覚ましたら、TVは三菱重工爆破事件で大騒ぎだった。
林さんは、その日は三越の屋上のイベントの司会だったとか。どういう状況で仕事したんだろう。

anyhow

ユーミンの
「ユーミンは、パックが終了した82年、「pearl pierce」を発表。
このころから、それまで充電していたエネルギーを
爆発させたかのように快進撃が始まります。」

というのは違うと思う。無理矢理パックとくっつけたような記述だ。
快進撃、と言うようなものはあったのかなぁ。
パールピアスは、もう既に十分登っていたような気がするけれど。

---
林さんのお別れの会は出かけました。
雨の日だった。
入口で受付をしていたのは、長岡アナウンサーでびっくり。
思わず見つけてしまって「林さんの放送は聞いていましたか?」と
たずねてしまった。「放送は知らない」って。当たり前だが。

林さんは結構現役でマイクを持ったり、カメラに写ったりしていたけれど。
晩年は表には出ていなかったので、窓際だったのかな、とずっと思っていたが。

同僚や先輩アナの贈る言葉を聞いていて、ものすごく幸せな晩年を送っていたと
聞きました。ゴルフが好きだったなんて、信じられない。

一番最後にユーミンが旅立つ秋を歌った。
ワインレッドの、薄いプリントのワンピースを着ていて、
大変おしゃれかつセクシー、しかも上品、という素晴らしい服装で感心した。

小倉弘子がユーミンの歌を見られて大はしゃぎ。(^_^;)
うーん、まぁ送る会ってこういうものかも。

帰り、駐車上に降りるエレベータで原田芳雄と一緒になった。

ユーミンの世界、切なく紡ぐ 貫地谷主演、芝居と歌が融合 10月、東京・帝国劇場


発行日 =2012年8月16日  ソース =夕刊
面 名 =文化芸能  ページ =3
発行社 =東京  文字数 =1026

ユーミンの世界、切なく紡ぐ 貫地谷主演、芝居と歌が融合 10月、東京・帝国劇場

 「恋愛の教祖」と呼ばれる松任谷由実の楽曲を元にした芝居に、貫地谷しほりが主演し、ユーミン自ら歌う。そんな舞台が10月、東京・帝国劇場にお目見えする。「8月31日~夏休み最後の日~」と題したこの公演、ミュージカルでもコンサートでもないエンターテインメントにするという。

 今年で27歳の貫地谷にとって、1972年デビューの松任谷は「母が大ファンで、小さいときから曲をたくさん聴いて育った」という存在だ。「一曲聴くと映画を見終わったような気分になる。声が力強いと思っていたけど、ライブを見たら少女のよう」と、印象を率直に語る。

 松任谷はテレビのドラマやナレーションで貫地谷を知っていた。初対面の際は「印象より、いい意味で気が強い人だな」と感じた。

 母娘ほど違う2人が舞台で紡ぐ恋愛は、時間を超えた普遍的なものになりそうだ。交通事故で意識不明になった一彦(吉沢悠)の元へ、別れた千佳(貫地谷)が呼ばれ、一彦の夢の中で再会する。2人が記憶をたどる旅をする場面に応じて、松任谷が歌う。いわば、芝居と音楽でユーミンソングを立体化していく。

 松任谷は、サーカス団と共演するステージ「シャングリラ」を99年から計3回催した。今回も新しいステージにするため、内容を練っている段階。芝居とは別に音楽やダンスが挿入され、演劇とコンサートを絡み合わせるようだ。

 「私のラブソングは、いま愛し合っているのに、いつかは会えなくなる、っていう宇宙観が流れている」と松任谷が説明すると、貫地谷は「だから切ないんだ」と嘆息を漏らす。

 松任谷の曲は、死をにおわせる詞が時折顔を出す。「方丈記」や「奥の細道」などに通じる無常な世界観だ。松任谷自身は、実家が商家で人の出入りが多く、「物事は同じところにとどまらない」という感覚が身についたからではないか、と振り返る。

 世代のギャップを、貫地谷は感じていない。共演の多い吉沢に対し、今回は初めて「役のうえでですけど、すごい好きになるかも。魔法にかかれたらいいな」と思ったという。

 脚本・演出は松任谷正隆。「普段している抽象的な話が、脚本に反映されている」と語るユーミン。「うーっ、かっこいい」と反応した貫地谷には「面倒くさいこともありますよ」と男女の難しさを説いた。教祖は健在だ。(井上秀樹)

 ◆10月7~31日。1万2千円、9千円。03・3201・7777(東宝テレザーブ)。
 【写真説明】
帝国劇場で顔をそろえた松任谷由実(左)と貫地谷しほり

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:5 永遠に青臭く


発行日 =2012年8月10日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be金曜2面  ページ =4
発行社 =東京  文字数 =1133

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:5 永遠に青臭く

 ――1986年に音楽学校「マイカ・ミュージック・ラボラトリー」を開校されました

 僕の人生って、子どものころできなかったことの実現なんです。
 「マイカ」もその一つ。パニック障害で、小学生のころから将来は音楽教師と思っていたでしょ。当時は夏木陽介さんの「青春とはなんだ」なんて青春学園ドラマがはやっていて、僕もああいう風に自分の言葉の一言でも誰かに残したいという思いが、どこかにずっとあったんですよね。
 子ども中心の家庭のみそくさい感じは嫌だし、ガキは嫌い。だから子どもが欲しいとは思わない。でも本能として何かを残したいという思いがある。だから「マイカ」は子ども代わりかな。かみさんは絶対何かを残したいなんて思いませんよ。自分は自分でしかない。それでいいという人ですから。

 ――すでに約1800人が卒業し、2001年からはジュニアコースもできました

 音楽技術を教える学校じゃない。自分のやりたいことを見つける場なんです。ある男の子は、お父さんが「この子に何か自信をつけてほしい」と連れてきた。それで彼の演奏を少し聴いて、エリック・クラプトンを薦めてみた。小6で聴きまくって、他の生徒とバンドを組んで、いまはプロになりました。僕も子どものころは、ほんのささいなことがすごくでかい問題に思えた。それが、その後の人生を変えてしまうようなことも、よくあるんですよね。
 でも、60年生きてきて思うのは、自分がおもしろいと思ったことでしか、人間は生きていけないということ。平凡な生活の中でも、何かおもしろいと思えることを見つけているから、生きてるんじゃないかな。だから「この学校で好きなことを見つけてくれ」ってことです。

 ――車好きでモータージャーナリストとしてTV番組のキャスターもされています

 これも、幼稚園のころなりたかったのがタクシー運転手だったから。うちには車がなかった。でも僕は、動くものや操縦に興味があって、車の絵ばかり描いていた。

 ――これからの人生は?

 48歳がノストラダムスの大予言の年で、地球がなくなっても48まで生きれば、まあいいと思ってた。48歳になると、還暦まで生きればよぼよぼだからいいと。でも実際なってみると、全然よぼよぼじゃない。88歳のおやじが「こんなはずじゃなかった」というのがわかる年になってきた。「やり残したことがこれだから、これをやろう」と編纂(へんさん)する人生は嫌なんです。だから目標も持ちたくないし、永遠に青臭くいたい。今おもしろいと思える作品を作り続けるだけですね。(聞き手・宮坂麻子)=おわり

 【写真説明】
愛車のポルシェと。メルセデス、ランドローバー、アウディも持っている=東京都、麻生健撮影

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:4 彼女の音楽に会い、春が来た


発行日 =2012年8月9日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be木曜2面  ページ =4
発行社 =東京  文字数 =1139

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:4 彼女の音楽に会い、春が来た
 (60歳)

 ――松任谷由実さんとの出会いは、1973年の初アルバム「ひこうき雲」の制作ですね

 吉田拓郎とは違う意味で「見たこともない人種」というのが、第一印象でしたね。まずファッションが嫌。黒ずくめで厚底のサンダルはいて。あとは、拓郎もそうだけど、世に出る人間ってアクというか人間力というか、強さがありますよね。あまり近づきたくない、って感じ。僕の場合は、第一印象が悪い人の方が、理解できない部分が興味に変わって、だんだんタイトな関係になってうまくいくんですけどね。

 ――いつから好印象に?

 僕は詞は書けないけど、曲は書ける。それでも、かみさんの曲を聴いていくうちに「オレのやりたい音楽だ」と思えてからかな。拓郎の時は「ヘッ、日本のフォークか」という程度にしかみてなかった。でも、かみさんの音楽で、昔の自分をふっと思い出して。男子校の中学時代、友達から女子校の子にベースを教えてやってくれと頼まれて、すごくアニマルな気持ちで引き受けたことがあったんです。会ってみたら全然タイプじゃなくてアニマルな気分には水をかけられたけど、ボサノバを弾くその子の音楽には、大ショックを受けました。かみさんの曲でそのころの自分を思い出して、「オレこういう音楽求めてたんだ」と自分の中でつじつまがあった。

 ――では、音楽に恋した?

 女性としては最初興味なかったですね。むしろ音楽。あれはどうか、これはどうかと、いろいろなことをおもしろがって、凝って。プロデューサーの村井邦彦さんだけが「しょうがねえなあー」なんて顔してましたけど。「曇り空」という曲ではデュエットもしてるんですよ。ここからが「暗黒時代」からの脱却です。

 ――では救いは由実さん?

 そういう意味では彼女は救世主。スタジオミュージシャンをしていたから、経験も知識も僕よりあって、ビオラの中音部記号なんていうのも、教わりました。村井さんからも認められて、いろんなことをさせてもらえるようになって、そこから本当にやりたい音楽をやれるようになったんです。女性としてひかれていくのは、ああいう詞を作る人間が、下ネタでみんなをゲラゲラ笑わせる、そのオバカとクリエーティブのコントラストに興味がわいてからかな。いまだにそういうところが好きなんですけど。

 ――その後も、松田聖子さんやゆず、いきものがかりなど有名アーティストの作品を手がけられます

 由実さんの時と、ほかのアーティストの時とは、距離感の違いはあります。でも、僕が手がけた作品を、由実さんが悪くいうことはないですよ。音楽についてはいつも語り合ってますから。(聞き手・宮坂麻子)

 【写真説明】
30回記念の苗場コンサートを前に、妻の松任谷由実さんと=2009年、東京都、レスリー・キー氏撮影

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:3 仲間と同居、すぐ逃げちゃう


発行日 =2012年8月8日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be水曜3面  ページ =3
発行社 =東京  文字数 =1097

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:3 仲間と同居、すぐ逃げちゃう
 (60歳)
 
 ――うそつきでいたずら好きだったとか

 そう、大うそつき。僕みたいな人間って、逃げ道を必ずどこかに作ることが大切だと思うんですよ。何らかの方法で。そうしないと壊れちゃう。僕にはその逃げ道が、うそや妄想だったんです。
 覚えているのは「おじいちゃんはロシア人」と友達に言ったことかな。うちに遊びにきた友達がお袋に「おじいちゃんロシア人なの?」と聞く。それを取り繕うためにうそをつかなきゃならなくなる。今もいたずらは大好きです。

 ――それがある意味で、創造的な力を鍛える訓練だった?

 そうかもしれないなあ。毎日、音楽や場面を想像する練習をしていたようなもんですから。中学になると、少しずつ学校が楽しくなって妄想も減ってはいきます。中学からギターとかバンジョーとか、アメリカンフォークのまねごとを始めたんです。高校まで習ったクラシックピアノとは全く別のもので、それが楽しかった。

 ――両親には反対された

 高校では家庭教師を4人つけられました。帰ると違う靴が玄関にあって。大学時代は「音楽やるなら家賃払え」と言われて払ってました。結婚の時、全額返してくれましたが。おやじは反対ではなかったんですよ。自分も作家か音楽家になりたかったけれど、安定した銀行員を選んだ。覚悟を持たせたかったんだと思いますね。

 ――大学時代にプロに

 レコードを僕に持ってくれば音符やコードに落とせるから重宝がられて、バンドをやっている男たちからモテモテでした。オリジナル曲を始めるのが大学時代。大学3年の時、東京・渋谷であったアマチュアバンドコンテストで優勝して、その後すぐ、加藤和彦さんから呼ばれたんです。東芝のステレオのCM録音で演奏して、それが初仕事。数週間後には、テイチクのスタジオで今度は吉田拓郎のレコーディングに立ち会うことに。有名な「結婚しようよ」です。

 ――小坂忠さんらと「フォージョーハーフ」を結成します

 小学生時代が僕の「暗黒時代パート1」だとしたら、この時代が「暗黒時代パート2」ですね。フォージョーハーフの時は、田舎で米軍払い下げの家を借りて、メンバー4人で共同生活です。当時ははやりでしたから。
 でも、僕は共同生活が嫌い。2日ぐらいで実家に逃げちゃう。しかも満員電車と同じで、飛行機は絶対ダメだった。地方公演のたびに、ばあちゃんやじいちゃんが死んだと言うわけです。そのうちうまくいかなくなって解散。次のバンドも、自我が出てきてなかなか続きませんでした。自分が何をして生きていくのかわからない時代でした。(聞き手・宮坂麻子)

 【写真説明】
20代。「バンドもおもしろかったけど、時につらかった」

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:2 通学、救ってくれた音楽


発行日 =2012年8月7日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be火曜2面  ページ =4
発行社 =東京  文字数 =1213

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:2 通学、救ってくれた音楽(60歳)
 ――幼いころから音楽を?

 僕、子どものころから変人なんですよ。たぶん、パニック障害。
 東京・高井戸で生まれました。父は旧東京銀行の銀行員で、母はゴルフ場建設で有名な安達建設の娘。四つ違いの弟がいて、電蓄から、時々クラシック音楽が流れる家でした。4歳からピアノを習い始めたんですが、幼稚園の時から、CMでもなんでも、テレビから流れる曲は、両手でパッと弾けたんです。ガラス瓶をたたいても、音程がわかる絶対音感もありました。近所の人や友達からはおもしろがられたけど、楽譜を読むのも得意じゃないし、ピアノの先生や母にはほめられませんでした。練習しないから、発表会でも女の子の方がずっとうまくて、挫折感は毎回、味わってましたね。

 ――小学校は慶応幼稚舎へ

 毎朝、京王井の頭線の満員電車で通学するんですが、これがどうしても耐えられなくて。途中で気分が悪くなっちゃうんです。嘔吐(おうと)するというわけじゃなくて、自分の中のエネルギーがなくなっちゃうっていうか、とにかくたくさんの人がいる電車の中にいると自分がおかしくなる。毎日、渋谷にたどり着くのがやっとで、駅長室でしばらく休ませてもらって。駅長さんとは仲良しでしたよ。そこからうちへ戻るしかなくなったことも何度もありました。本当につらいのに、先生も両親も「根性がないからだ」「どうしてこんなのになっちゃったんだ」と、理解してもらえず、不登校になるギリギリでしたね。

 ――近くの公立へ通う選択は?

 公立だったら、確実にいじめられていたと思います。本当に変人でしたから。給食もダメ。集まって食べる雰囲気が嫌。味の好みもはっきりしていて、嫌なものは体が受け付けない。カレーシチューと竜田揚げは好きだったけど、ホワイトシチューがメニューに載った週は、もう1週間ブルー。

 ――救ってくれたのが音楽?

 変ですけど、自分をすごく客観的に見られて、「魂を分離することもできる」と信じていた子だったんですよ。だから、ある時から電車内で「ナチュラルトリップ」を始めるんです。これは僕が名付けたんですが、つらくなってきたら、頭の中でピアノコンチェルトを流して、ピアニストの自分がオーケストラと一緒に弾いている姿や、指揮者になって指揮している姿を妄想するんです。そうすると、ものすごく気持ちがよくなって、満員電車も気にならなくなる。当時から、自分には音楽しか取りえはないと思っていましたし、ピアノがうまくなりたいと思っていたから、効果があったのかもしれませんが。

 ――早々に会社員はあきらめた

 満員電車に乗って、毎日同じ時刻にきっちり通勤する生活なんて僕には絶対無理。でも、ミュージシャンなんて考えは当時はゼロですから、なるなら学校の音楽教師と思ってました。長期休みもあるし、相手が子どもならなんとかなるかと。(聞き手・宮坂麻子)

 【写真説明】
慶応幼稚舎時代、ピアノの発表会でおすましする正隆さん

2013年2月11日月曜日

藤真利子


藤真利子

松任谷由実と親交があるのか。
リストを見ると、Surf&Snow VOL.1から数曲録音しているが。
時期的に、ユーミン本盤のリリースと重なっている。
藤真利子に書き下ろした曲なのかも知れない。

VIVA MARIKO! / 藤真利子
http://www5d.biglobe.ne.jp/~ktabloid/FujiMariko.htm


シ・ナ・リ・オ(1979年6月21日) LP
浪漫幻夢(1981年3月21日)           LP
狂躁曲(1982年1月25日)              CDアリ
ガラスの植物園(1984年8月5日)   LP


yahoo! auctions 藤真利子
http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?p=%C6%A3%BF%BF%CD%F8%BB%D2&auccat=22152&alocale=0jp&acc=jp&tab_ex=commerce&ei=euc-jp

YUMING FOREVER by LESLIE KEE


展示会
YUMING FOREVER by LESLIE KEE

豪華保存版写真集「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」


SHOOTING
http://shooting-mag.jp/news/exhibition/00429.html

「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」 Yuming 40th Anniversary Photo Exhibitionが、表参道ヒルズで開催中。
これは、レスリー・キー氏が松任谷由実活動40周年を記念して開催する写真展。18年間のアーカイブ写真に加え、ユーミンと海外で新たに撮り下ろした写真も展示されている。
会場内では、写真展示された作品をまとめた豪華保存版写真集「YUMING FOREVER by LESLIE KEE」とレコードアートBOX「YUMING FANTASY」を同時発売。
会場の表参道ヒルズ SPACE Oは、ユーミン&レスリーワールド一色。
音楽自体はもちろんんだが、CDジャケットやツアーパンフ、MV等、アーティストの指向性やシズルを表現するための写真の重要性について、改めて認識させられる。
1月6日まで開催されているので、「クリスマス&お正月」にユーミン&レスリーワールドに浸ってみては。

ユーミン公式サイト
http://yuming.co.jp/




『YUMING FOREVER by LESLIE KEE』写真展に行ってきました(^_^)
http://glasses0916.blog129.fc2.com/blog-entry-560.html


>>40代、50代が多いのではと思っていたのですが
20代後半?~30代の女性も多く来場されていました。

ユーミン始め、中島みゆき、サザン(桑田)、
そして永ちゃん(矢沢永吉)
長くトップに君臨しているアーチティストは
時代を敏感に察知し、変化に対応していると思う。

でも根っこの部分は、ブレていない。
だからファンは離れないのでしょうね。

商売も一緒ですよね。
変えてはいけない、ブレてはいけないモノがある。
でも変化は見逃さず、柔軟に対応する。

トップに長く君臨しているアーティストと老舗、
似ている気がするのですが。