2013年2月12日火曜日

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:3 仲間と同居、すぐ逃げちゃう


発行日 =2012年8月8日  ソース =夕刊
面 名 =夕刊be水曜3面  ページ =3
発行社 =東京  文字数 =1097

(人生の贈りもの)音楽プロデューサー・松任谷正隆:3 仲間と同居、すぐ逃げちゃう
 (60歳)
 
 ――うそつきでいたずら好きだったとか

 そう、大うそつき。僕みたいな人間って、逃げ道を必ずどこかに作ることが大切だと思うんですよ。何らかの方法で。そうしないと壊れちゃう。僕にはその逃げ道が、うそや妄想だったんです。
 覚えているのは「おじいちゃんはロシア人」と友達に言ったことかな。うちに遊びにきた友達がお袋に「おじいちゃんロシア人なの?」と聞く。それを取り繕うためにうそをつかなきゃならなくなる。今もいたずらは大好きです。

 ――それがある意味で、創造的な力を鍛える訓練だった?

 そうかもしれないなあ。毎日、音楽や場面を想像する練習をしていたようなもんですから。中学になると、少しずつ学校が楽しくなって妄想も減ってはいきます。中学からギターとかバンジョーとか、アメリカンフォークのまねごとを始めたんです。高校まで習ったクラシックピアノとは全く別のもので、それが楽しかった。

 ――両親には反対された

 高校では家庭教師を4人つけられました。帰ると違う靴が玄関にあって。大学時代は「音楽やるなら家賃払え」と言われて払ってました。結婚の時、全額返してくれましたが。おやじは反対ではなかったんですよ。自分も作家か音楽家になりたかったけれど、安定した銀行員を選んだ。覚悟を持たせたかったんだと思いますね。

 ――大学時代にプロに

 レコードを僕に持ってくれば音符やコードに落とせるから重宝がられて、バンドをやっている男たちからモテモテでした。オリジナル曲を始めるのが大学時代。大学3年の時、東京・渋谷であったアマチュアバンドコンテストで優勝して、その後すぐ、加藤和彦さんから呼ばれたんです。東芝のステレオのCM録音で演奏して、それが初仕事。数週間後には、テイチクのスタジオで今度は吉田拓郎のレコーディングに立ち会うことに。有名な「結婚しようよ」です。

 ――小坂忠さんらと「フォージョーハーフ」を結成します

 小学生時代が僕の「暗黒時代パート1」だとしたら、この時代が「暗黒時代パート2」ですね。フォージョーハーフの時は、田舎で米軍払い下げの家を借りて、メンバー4人で共同生活です。当時ははやりでしたから。
 でも、僕は共同生活が嫌い。2日ぐらいで実家に逃げちゃう。しかも満員電車と同じで、飛行機は絶対ダメだった。地方公演のたびに、ばあちゃんやじいちゃんが死んだと言うわけです。そのうちうまくいかなくなって解散。次のバンドも、自我が出てきてなかなか続きませんでした。自分が何をして生きていくのかわからない時代でした。(聞き手・宮坂麻子)

 【写真説明】
20代。「バンドもおもしろかったけど、時につらかった」

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